なぜ時間は一方向にしか進まないか、とは?

これを読んで考えたことを、他のところに書いたけど、ここにも転記しておく。

全然よくわからない。

「熱いコーヒーが冷める」という方向の運動変化が可能なら、その逆方向の運動変化も可能であるはずなのが量子力学なのだとして(この理解も合ってるかわからないが)、そこで問題になっているのは時間そのものの流れる方向ではなく、あくまで運動変化の方向ではないのか。「あたかも時間が逆方向に流れたかのような」運動変化の方向、というだけの話で。
だとしたら、そこで扱える問題は「なぜある種の運動変化は一方向にしか進まないのか」なのであって、「なぜ時間は一方向にしか進まないのか」という問題は関係ないのでは。

そもそも、本当に時間そのものが逆方向に流れたら…というケースを考えるのは極めて困難だと思われる。

上記の「あたかも時間が逆方向に流れたかのような」運動変化というのは、例えば熱いコーヒーが冷める様子を映した映像を逆再生した場合に、そこに映って見える運動変化のことだと言ってよいかもしれないけど、この場合、映像を通してコーヒーの運動変化を見る人は、いわば映像世界の外からそれを見ており、その人は映像の再生の方向(映像世界の時間の流れる方向)から独立した世界にいる。つまり、コーヒーの運動変化を見る人のいる世界の時間は、逆方向に流れてはいないのである。

それに対して、本当に時間そのものが逆方向に流れているというのを考えようと思ったら、それを考えようとする人のいる世界の時間が逆方向に進んでいるというケースを考えなければならないのではないか。
これを頑張って考えようとして、例えば熱いコーヒーが冷める様子とその脇でコーヒーを観察している人の両方を映した映像を逆再生する場合を考えてもいいかもしれない。そうすればその映像世界は時間が逆方向に流れる。そして、時間そのものの逆進を考えようとしている人は、自らを、その映像の中に映っている、コーヒーの脇にいる人物の立場に重ねようとする。
しかしこれは困難である。いったい、逆再生された映像の中の人にとって自分のいる世界の時間が逆に流れていることがわかるのか、わからないのか、それすらもわからないように思える。

しかしそう考えると、映像が(逆でなく順)再生されている場合も、映像の中の人にとって自分の世界(映像世界)の時間が順方向に流れていることがわかるのかどうか、わからない気がする。
けれど実際自分は、順と呼ぶか逆と呼ぶかはともかく、少なくとも一定の方向に流れる何かの中で生きているような感じがする。時間の向きなのか、それとも別の何かの向きなのかはわからないが(そもそも時間に向きはあるのか。そもそも時間はあるのか)。ともかく、これとは逆向きの生の実感というのは考えがたい。

全然わからない。

「物語」について

久々に投稿。

哲学カフェに行ってきました。テーマは「物語」と聞いて、いわゆるフィクションとしての物語と、それより広い意味でのストーリー一般としての物語と、いろいろあるなあと思っていたところ。

物語と説明の違いの話になってそこは面白かった。自分と違う意見が出てそこは積極的に反論していった。「説明」観がかなり違ったのでびっくりした。
最終的には、物語ではあるが説明ではないもの(小説等のフィクションとしての物語とか*1)、物語でありかつ説明であるもの(就活の面接での志望動機等の説明とか)、物語ではないが説明ではあるもの(取扱説明書に書かれる製品の使い方の説明とか)の3パターンがあるかなと思った。

よい物語とわるい物語の違いの話にもなったけど、そこはよくわからなかった。ある物語をどういう観点でよい・わるいと見なすのかによって、いろいろなよさ・わるさがあるだろうし、そこは整理して考えないといけない気がする(物語の面白さ・つまらなさ、物語のもつ効力が道徳的によい・わるい、等々)。

ちなみに、よい説明とわるい説明は、説明の上手さ・下手さの違いに尽きるのではないかと思う。説明というのは、何かについて理解してもらうためにそれを詳らかにして伝えることだと思う(哲学カフェで話したときと僅かに考えが変わっているかも)ので、その何かの理解に必要な情報を、(話の順番・構成等々)理解しやすいかたちで伝えるのが、上手な、よい説明だと思う。下手な説明は、その説明が理解しにくいので、まったく同じことについての説明をもう一度求めることになりかねないけど、上手な説明だとそういうことにはなりえない。

あとは歴史修正主義の問題を念頭に置きながら、フィクション(架空の物語、出鱈目な歴史語りも含む)とノンフィクション(現実についての物語)と現実の違いについて問題提起をしたりもした。

他の人からは、(問いの字面を正確には覚えていないけど)なぜ人は物語を必要とするのか、欲するのかみたいな問いが出てそれも面白かった。自分がニーチェをやっているからか(あんまり関係ない気もするけど)、生存に意味を欲するからじゃないかなあなんて思ったりした。これは話さなかったけど。物語は意味付けだみたいな話は出ていたから、この路線で話しても面白かったと思う。

自分の人生に物語感が全然無いので、今後どうやって生きていけばいいか全然わからない。みんな何のために、この世の何を価値にして生きているのか。あの世なるものにもリアリティを感じないし(そもそもそういう超越的なものについて積極的に語りたくないというのもある)。
「何のために」ということを忘れることでしか生きていけない、その日暮らしの根無し草感が自分にはあって、時々寂しかったり苦しかったりする。

*1:小説の文章の中に何かの説明が含まれることはあるだろうけど、小説全体が何かについて説明しているわけではない。

最近戻った気がする(独白)

「最近変わったらしい」と書いてから1ヶ月経って、最近戻ってきた気がする。人に興味をもつ(ふりをする)ことができていないような。

毎日があまり楽しくない気もする。つらいわけでも、つまらないわけでもない(はずな)のだけど。

一応院生なので、専攻している哲学と、あと仕事の方にいろいろ集中させてるのかもしれない。

と言えば聞こえはいいけれど、そんなに集中してるか自分。

まあそのツッコミは置いておいて、ともかく最近は自分の殻に閉じこもっている感覚が、少し前の「変わった」と言われた時期よりも、なんだか強くなっている。


…というこの文章も、最近無理矢理更新してみた3つくらいのブログ記事も、読者である他者を意識していない感じがする。
意識の仕方がわからない。

とりあえず、「です・ます」で書いてみようかな。そうしたら、もう少し読み手を自然に意識できるかもしれない。

最近は暖かくなったり涼しくなったりしますね。風邪をひかないように注意しないといけないですね。

…何の話だ。読者を意識してみたけど、何にも話題が思いつかなかった。そういう時の気候の話題。ジョギングは相変わらず週一くらいで続けています*1。そして風邪をひかなくなりました。なので私は注意しません。

結局、自分の殻に閉じこもりそうになったので今日は断念。また再チャレンジしよう。

*1:おかげで体型だけは戻ってません。ピーク時よりもたぶん7、8キロ痩せました。

深夜の戯れ

別に言いたいことも書きたいことも伝えたいこともない。
リアクションペーパーをたくさん書ける人って何を書いてるんだろうって思っていたよ。
大学院生になってからは、少しは書けるようになった。
ひたすら論の弱いところを反駁していくという仕方で。
相変わらず感想なんてものはたいして書けないんだ。
何も感じない。何も想わない。
頭の中に、心の中に、何にもないわけじゃないんだろうけど、何にも出てこない。
何にも出てこない。
ということが出てきた。

…みたいな文章を適当に書いて、竹原ピストルの声で脳内再生すると、それっぽくなるような気がしないでもない、という遊び。

恐怖症

連休中に見た夢で、ひたすらに銃で狙われて怖い想いをするというのがあって、目が覚めてからもしばらく(寝ぼけている間は)狙われている感がして怖かった。自分には命を狙われるほどの価値もないと思い直して恐怖を克服したけど。

元来、自分は死ぬこと自体にはそこまでの恐怖を覚えなくて、死ぬ前に苦痛がありそうなのがとても嫌というのがメインなのだけど、銃は単なる苦痛の予期以上の怖さがある。

銃弾を心臓とかその他の臓器に撃ち込まれるのは、苦痛があるからとても嫌だけど、そのこと自体は恐怖という感じではあまりない。怖いのは、脳に撃ち込まれた場合。脳に撃ち込まれたらどうなるかはわからないけど、死ぬ間際にものすごくバグったような感じになるのではないかと思われて、それが怖いし気持ち悪い。

広い意味では死の恐怖に括られてしまうのかもしれないけど、やっぱりなんか別に怖いのは死とかじゃない。死の恐怖というよりは先端恐怖症みたいなもの、それに類するもののような気がする。強いて言えば、脳破壊恐怖症。怖くない?