結婚おめでとう

昨日は学部時代の後輩たちの結婚式の2次会(+3次会、4次会)に行ってきました。招待してくれて嬉しかった。

いままで名前だけ聞いたことがあって喋ったことも面識もないような学科の後輩とか、新郎新婦の学科関係以外の友人で昨日初めて会った人とか、そういう人たち何人かと楽しくお話しできたので自分としても本当によかった。

まあそれより何より、新郎新婦の結婚を祝う場にいられたことがとにかくよかった。新婦が「生まれてきてよかった」と言っていたのが印象的だった。

2次会の中で、グループを組んで代表者が1分間スピーチを半即興でやるというコーナーがあった。自分のグループは「祝う」というお題が与えられていて、スピーチは他の人が代表者としてやることになったのだけど、「祝う」というテーマについては、前から思うところがあって、別のところでもちょこちょこ書いていたので、自分が代表者に指名されたらこういうことを言うかなあ、というのをここでも書いてみよう。

お祝いの時は「おめでとう」と言うけど、例えば「誕生日おめでとう」と人に言うのは「一つの歳を生きながらえることができてよかった」と言ってるのと同じなのではないかと思ったりする。同様に「結婚おめでとう」は「結婚してよかった」、もう少し具体的に言えば「一生添い遂げられると思える人と一緒になれてよかった」と言うのと同じ。

で、誕生日とか結婚とか、そういう人生の局面に対する「おめでとう」は、結局のところ相手の人生を肯定するものだと思う。つまり、「あなたが生まれてきてよかった」ということ。その意味で、新婦自身が「生まれてきてよかった」と言ったことはとても心に残った。自分で自分の人生に「おめでとう」と言えるのは奇跡的なことだと思うから。

自分はというと、自分の人生を日々むなしく過ごしていて、楽しい出来事があってもむなしさは刹那的にしか消えない感じがするので、自分の人生に「おめでとう」とはなかなか言えない。そういう主観的なむなしさは置いておいたとしても、人生苦しいことやつらいことはままあったりして、生きるのはしばしば大変でもある。

そう考えると、自分が他人の人生に「おめでとう」と言うのも、若干欺瞞的な感じがしなくもない。少なくとも自分は自分の人生に「おめでとう」とは言えないから。もちろん、「自分の人生はめでたくないが、ある他人の人生はめでたい」というのも十分ありうることだから、別に欺瞞ではないかもしれない。自分の人生と他人の人生はある種の価値が異なるかもしれない*1

とはいえともかく、自身の人生にむなしさを感じ(続け)るということは、誰にでも起こりうることだと自分は思う。一般化しすぎな言い方かもしれないが、人生はむなしい。しかしだからこそ、自分は「生まれてきてよかった」と言えた新婦と新郎の結婚に、人生に、たとえ欺瞞的であったとしても全力で、「おめでとう」と言いたいなあと思う。むなしく感じられない人生という奇跡を後押しするために。

結婚おめでとう。

…これ絶対1分じゃおさまらないから、スピーチ引き受けなくてよかった。

*1:人権は等しくなければ困るけど。

自販機の前で

昼休みに入るか入らないかくらいの時間帯、大学の自販機で缶コーヒーを買おうと並んだら前に女性が二人いて、一番前の女性が小銭を出そうと小銭入れを探っているのだけど、なかなかお目当てのコインが出てこないようで、その人は身を引いて後ろの女性に順番を譲ったのだった。

譲られた女性が比較的スムーズに飲み物を買い終えて、その頃には譲った女性も小銭が用意できた様子で、自分はその人が飲み物を買うのを2秒くらい待っていたのだけど、その女性が動こうとしないのでその人に目をやったら、笑顔で「どうぞ」と言う感じで(口には出していなかったが)譲られたので、自分は「何て性格のいい人なんだ」と思いながら缶コーヒーを買った。

20秒ほどの出来事だった。

その人からしたら、列を外れたのだから最後尾に並ぼうという感じなのかもしれないけど、たしかにそういうふうに考えれば合理的なのかもしれないけど、当然のことではないし、自分からしたらむしろその人が二番目に買うのが当然みたいなところがあるので、たいへん感激した。

笑顔は眩しかった。

これが恋か。違うか。

なぜ時間は一方向にしか進まないか、とは?

これを読んで考えたことを、他のところに書いたけど、ここにも転記しておく。

全然よくわからない。

「熱いコーヒーが冷める」という方向の運動変化が可能なら、その逆方向の運動変化も可能であるはずなのが量子力学なのだとして(この理解も合ってるかわからないが)、そこで問題になっているのは時間そのものの流れる方向ではなく、あくまで運動変化の方向ではないのか。「あたかも時間が逆方向に流れたかのような」運動変化の方向、というだけの話で。
だとしたら、そこで扱える問題は「なぜある種の運動変化は一方向にしか進まないのか」なのであって、「なぜ時間は一方向にしか進まないのか」という問題は関係ないのでは。

そもそも、本当に時間そのものが逆方向に流れたら…というケースを考えるのは極めて困難だと思われる。

上記の「あたかも時間が逆方向に流れたかのような」運動変化というのは、例えば熱いコーヒーが冷める様子を映した映像を逆再生した場合に、そこに映って見える運動変化のことだと言ってよいかもしれないけど、この場合、映像を通してコーヒーの運動変化を見る人は、いわば映像世界の外からそれを見ており、その人は映像の再生の方向(映像世界の時間の流れる方向)から独立した世界にいる。つまり、コーヒーの運動変化を見る人のいる世界の時間は、逆方向に流れてはいないのである。

それに対して、本当に時間そのものが逆方向に流れているというのを考えようと思ったら、それを考えようとする人のいる世界の時間が逆方向に進んでいるというケースを考えなければならないのではないか。
これを頑張って考えようとして、例えば熱いコーヒーが冷める様子とその脇でコーヒーを観察している人の両方を映した映像を逆再生する場合を考えてもいいかもしれない。そうすればその映像世界は時間が逆方向に流れる。そして、時間そのものの逆進を考えようとしている人は、自らを、その映像の中に映っている、コーヒーの脇にいる人物の立場に重ねようとする。
しかしこれは困難である。いったい、逆再生された映像の中の人にとって自分のいる世界の時間が逆に流れていることがわかるのか、わからないのか、それすらもわからないように思える。

しかしそう考えると、映像が(逆でなく順)再生されている場合も、映像の中の人にとって自分の世界(映像世界)の時間が順方向に流れていることがわかるのかどうか、わからない気がする。
けれど実際自分は、順と呼ぶか逆と呼ぶかはともかく、少なくとも一定の方向に流れる何かの中で生きているような感じがする。時間の向きなのか、それとも別の何かの向きなのかはわからないが(そもそも時間に向きはあるのか。そもそも時間はあるのか)。ともかく、これとは逆向きの生の実感というのは考えがたい。

全然わからない。

「物語」について

久々に投稿。

哲学カフェに行ってきました。テーマは「物語」と聞いて、いわゆるフィクションとしての物語と、それより広い意味でのストーリー一般としての物語と、いろいろあるなあと思っていたところ。

物語と説明の違いの話になってそこは面白かった。自分と違う意見が出てそこは積極的に反論していった。「説明」観がかなり違ったのでびっくりした。
最終的には、物語ではあるが説明ではないもの(小説等のフィクションとしての物語とか*1)、物語でありかつ説明であるもの(就活の面接での志望動機等の説明とか)、物語ではないが説明ではあるもの(取扱説明書に書かれる製品の使い方の説明とか)の3パターンがあるかなと思った。

よい物語とわるい物語の違いの話にもなったけど、そこはよくわからなかった。ある物語をどういう観点でよい・わるいと見なすのかによって、いろいろなよさ・わるさがあるだろうし、そこは整理して考えないといけない気がする(物語の面白さ・つまらなさ、物語のもつ効力が道徳的によい・わるい、等々)。

ちなみに、よい説明とわるい説明は、説明の上手さ・下手さの違いに尽きるのではないかと思う。説明というのは、何かについて理解してもらうためにそれを詳らかにして伝えることだと思う(哲学カフェで話したときと僅かに考えが変わっているかも)ので、その何かの理解に必要な情報を、(話の順番・構成等々)理解しやすいかたちで伝えるのが、上手な、よい説明だと思う。下手な説明は、その説明が理解しにくいので、まったく同じことについての説明をもう一度求めることになりかねないけど、上手な説明だとそういうことにはなりえない。

あとは歴史修正主義の問題を念頭に置きながら、フィクション(架空の物語、出鱈目な歴史語りも含む)とノンフィクション(現実についての物語)と現実の違いについて問題提起をしたりもした。

他の人からは、(問いの字面を正確には覚えていないけど)なぜ人は物語を必要とするのか、欲するのかみたいな問いが出てそれも面白かった。自分がニーチェをやっているからか(あんまり関係ない気もするけど)、生存に意味を欲するからじゃないかなあなんて思ったりした。これは話さなかったけど。物語は意味付けだみたいな話は出ていたから、この路線で話しても面白かったと思う。

自分の人生に物語感が全然無いので、今後どうやって生きていけばいいか全然わからない。みんな何のために、この世の何を価値にして生きているのか。あの世なるものにもリアリティを感じないし(そもそもそういう超越的なものについて積極的に語りたくないというのもある)。
「何のために」ということを忘れることでしか生きていけない、その日暮らしの根無し草感が自分にはあって、時々寂しかったり苦しかったりする。

*1:小説の文章の中に何かの説明が含まれることはあるだろうけど、小説全体が何かについて説明しているわけではない。

最近戻った気がする(独白)

「最近変わったらしい」と書いてから1ヶ月経って、最近戻ってきた気がする。人に興味をもつ(ふりをする)ことができていないような。

毎日があまり楽しくない気もする。つらいわけでも、つまらないわけでもない(はずな)のだけど。

一応院生なので、専攻している哲学と、あと仕事の方にいろいろ集中させてるのかもしれない。

と言えば聞こえはいいけれど、そんなに集中してるか自分。

まあそのツッコミは置いておいて、ともかく最近は自分の殻に閉じこもっている感覚が、少し前の「変わった」と言われた時期よりも、なんだか強くなっている。


…というこの文章も、最近無理矢理更新してみた3つくらいのブログ記事も、読者である他者を意識していない感じがする。
意識の仕方がわからない。

とりあえず、「です・ます」で書いてみようかな。そうしたら、もう少し読み手を自然に意識できるかもしれない。

最近は暖かくなったり涼しくなったりしますね。風邪をひかないように注意しないといけないですね。

…何の話だ。読者を意識してみたけど、何にも話題が思いつかなかった。そういう時の気候の話題。ジョギングは相変わらず週一くらいで続けています*1。そして風邪をひかなくなりました。なので私は注意しません。

結局、自分の殻に閉じこもりそうになったので今日は断念。また再チャレンジしよう。

*1:おかげで体型だけは戻ってません。ピーク時よりもたぶん7、8キロ痩せました。