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財布

10年以上使っている財布がついに壊れつつある。ずいぶん前からボロボロではあったのだけど、ファスナーが壊れかけて閉じるのに一苦労。そう、10年以上使っているということはつまり、高校生が使っているような財布を使っているわけです。いい加減、年相応のやつを買わないとなあと。別に年相応でなくてもいい気もするけど、最近なんだか人の目を気にしている感じもあり、その感じに合わせれば、年相応のやつを買うことになるのだろう。と言いつつ、センスに自信はないので年相応のやつを買っているつもりで、大学生が使うようなやつを買ってしまうかもしれない。まあその時は、精神年齢なり経験値なりが大学生程度ということでご愛嬌。てか、そうだとしたら、高校生から使っている今の財布は実は中学生が使うようなやつなのかもしれない。と思ったけど、この財布は姉か親に貰ったやつだった気がするので、別に自分のセンスで選んだわけじゃないと思われる。一安心。

望みを絶つということ

失望する人はえらそうだけど、絶望する人はえらそうじゃない。望みを絶つと書いて絶望だったら積極的で能動的だけど、やっぱりそうじゃなくて望みが絶たれると書いて絶望なんだろうか。絶たれる望みもなかったら絶望しなくて済むだろうか。それともすでにしてるのか。

でも絶望がつらいものだとしたら、やっぱりまだ望んでいると思う。望んでいて、しかしその望みは実現しないと信じているのが絶望。望んでいなかったら、絶望することもない。そういう意味では、望みが無くても生きられるんじゃないか。普段の生活は割と望みが無い状態をメインにしている気がするし。

望みを絶つというのは普段の生活に戻るということなのではないか。いわゆる絶望とは違うけど。そういえば宮部みゆきの『模倣犯』をドラマ化したやつで、被害者遺族の登場人物が言うのが、奪われた日常生活に戻ってそれを続けていくのが犯人に対する戦い、みたいなことを言っていた気がする。正確な表現は覚えていないけど。行方不明だった家族が殺されていたとわかったときに、帰ってくるかもしれないという望みはいずれ絶たないといけない。どんなにつらくても、日常生活にはいつか戻らないといけない。そんな話だったかどうだったか。

日常ってなんだろう。「いつもの」とは。戦場にも日常はあるのだろうか。日常と非日常の区別を自分はあまり意識していない方だけど(だって日々いろいろ違うし)、ここは戦場じゃないだけやっぱり非日常ではないのかもしれない。おまえの望みは何だ。

殺意を伴った正当な防衛はありうるか

「正当防衛」という言葉を使うといかにも法律上の言葉なので、ここでは「(法的にというより道徳的に)正当な防衛」という言葉を使うけど、仮に「正当な防衛」というのがありうるとして、防衛行動に殺意が伴った場合、その防衛は果たして「正当な防衛」たりうるのだろうか、正当な場合があるならどういう場合かという問題が気になっている。

相手を死に至らしめないと防衛できないのであれば、殺意があっても正当だと思うのだけど、そういう場合は滅多にないように思える。
例えば銃を持った人(以下、「犯人」と呼ぶ)が自分を(あるいは第三者の他人を)何がなんでも殺そうとしているが、自分も銃を持っているという場合を考えてみる。

その場合、犯人が銃を握っている手なり腕なりを(あるいは他方の手や腕も)撃つことができれば、犯人を死なせずに防衛できる。もし犯人の手なり腕なりを撃てる技術があるなら、基本的にはわざわざ心臓や脳を狙う(犯人を死に至らしめる)必要はない。
ただし、犯人が第三者の人を至近距離で狙っている場合は、その犯人の意識を一瞬で奪わなければ、薄れゆく意識の中でその第三者を殺そうと発砲する可能性が大いにある。そのような場合はあえて脳を狙う必要があるかもしれない(離れた距離にいる犯人の意識を一瞬で奪う方法が即死させるような方法以外に思いつかない)。だとすれば、その防衛は殺意を伴った正当な防衛ではないか。

いや、そのような場合でさえ、純粋な殺意を伴っているわけでは(必ずしも)ないように思える。というのも、そのような防衛において脳を狙って撃つことは、犯人の意識を奪うためにやむを得ず取る手段であって、その手段は犯人の死を伴うけれども、犯人の死そのものを目的とした手段ではないからである。

結局、「殺す」とは何だろう、という話になりそう。
誰かを死なせる行為をした人がその行為によって相手の死を目指していなければ、(例えば刑法で傷害致死と殺人が区別されているのと同じように)、相手を結果的に死なせることになっても殺したことにならないのではないか。そう考えれば、まずは「死なせる」と「殺す」を区別しなければならないだろう。
「殺意」にしても、相手の死をもたらすとわかっている行為を意図的にするなら、その意図・意志を「殺意」と呼んでもよいだろうけど、先述の例のように相手の死をもたらす手段をやむを得ず取る場合は、狭義の殺意にはあたらないのではないか。

このように考えれば、狭義の殺意を伴った防衛は「正当な防衛」ではないと言えそうである。いろいろ考えが足りていないところもあるだろうから、暫定的な結論ではあるが。

人に薦められたものについて

ブログを作った途端に書きたいことが思い浮かばなくなってしまった。そこで試しに無理矢理書いてみる。だいたい自分に、もしくは自分の周りに起きた出来事とかを書けばいいんだよな。はてさて。

元来、自分は趣味らしい趣味がほとんどなくて、人と趣味の話で盛り上がるということも滅多にない。その主な原因の一つは、自分が他人の趣味にほとんど興味をもたないことにあると思われる。周りで趣味の話で盛り上がっていても、聞いているだけか、あるいは聞いてもいないか。

そんな感じなので、人から何か小説、映画、マンガ、アニメ、音楽等々の類を薦められても、それを見たり聴いたりしてみようと思うことはなかった。しかし、もう大人だし、あんまり人の趣味に興味をもたないのも、視野が狭いままといった感じでなんだかよくないような気がするので、最近たまたま薦められる機会があった次の2つの作品を買ってみた。

絶叫委員会 (ちくま文庫)

絶叫委員会 (ちくま文庫)

穂村弘『絶叫委員会』

街中にあふれる無意識のポエムについて各々数ページで分析・考察しているエッセイ。着眼点が自分と似ている、みたいなことで薦められて、たしかに読んでみたら似ている部分があるにはあった。
気にしていなければスルーしてしまいそうなちょっと変な言葉を面白がるという点は似ているのだけど、考察の仕方はやっぱり詩人・歌人だなあという感じ。自分は詩にはやっぱり興味がないのだなあと。
全体的に笑いながら読んだので、そういう意味で面白かったです。

宮崎駿風の谷のナウシカ

映画の方は録画した金曜ロードショーのやつを、金曜ロードショーで放送されてからだいぶ経った後に見たことがある。それは去年か一昨年あたりのこと。
漫画版の方が長いしいろいろ映画版と異なると聞いてはいたけど、映画自体そこまで面白いとは思っていなかったので(ふつうに面白いというくらい)、漫画版を是非読むといいですよ、みたいに言われても興味は特になかった。が、買ってみた。
たしかに面白かったけど、まあ面白かったなあという感じ。こういうのからエヴァンゲリオンとかが生まれてきたのかなあなんて適当に思ったりもした。エヴァンゲリオンよりはずいぶんとオーガニックだけど。
ナウシカの運動能力と懐柔力が半端なくて、まあそれならなんとかなるよなあとは思った。昨日の敵は今日の友と言うけれど、ナウシカの場合、さっきの敵は今の友レベル。まあそれはそれでいいのだけど。

結局のところ

薦められても面白いけど、きっと自分で邂逅した方がもっと面白いだろうなあと思った。
ただ、薦められないと読まない・聴かない・鑑賞しないことの方が多いだろうから、薦められるがままにそうするのも悪くはないかと。
それで他の人の趣味に興味がもてればよいのだろうけれど、しかしまだそこまではなかなか難しいかもしれない。

Facebookの方から来ました

実はブログはこっそりともう1つ別のものがあるのですが、それは自分個人のことからは少し離れたようなこと(ニュースの記事についてとか)を書いているブログで、しかもたしか1年半くらい更新していないという。ここではもう少し自分個人のこととか、あるいは自分自身(の経験)についてでなくても、自分の考えというものを前面に押し出した感じで書ければなあと思います。

そういうことはこれまでFacebookに書いていたのですが、最近Facebookに書きすぎている感があり、ニュースフィード(っていうんだっけ)を汚してしまうかなあと思ったので、こっちに移ってきました。まあ、知人からの「いいね!」も欲しいので、Facebookにも引き続き書くには書くし、ここで書いた記事をTwitterなりFacebookなりでシェアする可能性は多々ありますが。承認欲求がひどい。

しかし1月下旬に入った頃は、最近全然Facebookに書いてないなあ、書きたいことがないなあ、という感じだったのですが(そのことはFacebookに書いた)、2月に入ったくらいからまた書きたくなって投稿頻度が増えたので、だったらブログにするかという次第です。

はてなブログを選んだのは、はてなダイアリーの頃からはてなを断続的に使っていて慣れているからというのが一つと、後は一部の後輩(と厳密には先輩も)の間ではてなブログが流行っているからというのが一つ。
とりあえずしばらくは、Facebookに何か書きたくなったらその衝動を少し抑えて、はてなブログに吐き出すみたいに書こうかなという方針です。

そういえば「後輩」、「先輩」というのは大学(院)のそれです。一応大学院生なので。哲学をやっているらしいです。哲学のことをどのくらい書くかはわかりませんが、少なくとも専門的なことを書いたり、専門的な言葉を使ったりはここではしないつもりです。そもそもそういうことを書かないかもしれないし。
その一部の後輩と先輩はそういうテーマで書いているのですが、このブログは単なる雑記帳になるかなと思います。雑記帳と呼べるほど更新できるかも怪しいですが。

まあ最初の記事はこんなもんですかね。