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理性と感情のライフハック

この間、哲学カフェに行ってきたら、またもや理性と感情の話をした(ような気がするけど考えただけかもしれない。記憶が朧気)。その前の回のテーマがたしか「感情」で、そのときももちろんそんな話をしたから、二回連続でそんな話をしたことになる。
理性とは何ぞや、感情とは何ぞやという点は置いておくけど、自分が思うに、理性は感情に動かされつつ、感情を多少コントロールしようとすることができるのではないか。理性と感情の微妙なバランスというか緊張関係というか。理性が感情に完全に動かされることは少なく、理性が感情を完全にコントロールすることはほぼない。理性が感情に完全に動かされる方がまだありえそうで、微妙に非対称だけども。

自分は元来、精神的にあまり強くない・打たれ弱いからか、打たれたときには理性で感情の揺れを調整しようと試みることが多い。考え方を変えようとしてみるとか、自分が意識・着目していなかった点を見つけて着目してみるとか。根本的には解決しないのだけど、それで自分の感情を多少なだめすかすこともできる。そんなライフハック
本当は他の人に話を聞いてもらうのがいいのかもしれないけど、自分の話(特に立ち入ったこと)はあんまりしたくないんだよなあ。

未来は変えられるって何?

「過去は変えられないが未来は変えられる」ってよくわからない。

「過去は変えられない」というのは、過去が確定しているということである。とすれば、「未来は変えられない」は、未来が確定しているということを意味する。じゃあ「未来は変えられる」となるとどうなるか。未来は確定していないということか。

しかしその場合、何から何に変えることができるのか。「変える」というからには、「何から」、つまり何かしら元の状態というのがあるはずだけど、元の状態というのは何なのか。完全な確定ではない暫定みたいなものがあるのか。なんだそれ。「このまま行けば」みたいな感じかもしれないが、何が「このまま」なのか。

「未来は変えられる」と言う人は、現在を材料にして未来を勝手に暫定的に決めているだけなのではないか。それが役に立つことはたしかにあるだろうけど、しかし未来のことはわからない。まだ見ぬ未来は変えようもない。

渡瀬恒彦が亡くなって

自分にとって渡瀬恒彦は、まずなによりも『タクシードライバーの推理日誌』の夜明日出夫で、あるいは『9係』とか『おみやさん』とか、とにかくテレビドラマの俳優で、気づけば事件もののドラマ(テレ朝が多い)に出ている、よく見慣れた俳優だった。特別思い入れがあるわけではなかったけれど、こうして亡くなられると、他の芸能人の訃報を聞いたときよりもなんだか寂しいし、その一方でまだ実感がわかなくて、もうテレビで見られないという感じが全然しない。

この土日にアガサ・クリスティ原作の『そして誰もいなくなった』のドラマが二夜連続で放送されていてそれを見たのだけど、それに渡瀬恒彦が出ていた。たしか昨年の12月から今年の2月にかけて撮影した作品らしく、これが渡瀬恒彦の遺作となったとのこと。

渡瀬恒彦は重い病気であることがわかっていたから、本人はこれが遺作になるかななんてある程度予想がついたかもしれないと思うのだけど(もちろんもっと出たい、遺作にしてなるものかと思っていたかもしれないが)、俳優という職業一般を考えると、死というものは突然やってくることもあるから、急に「この作品が遺作となりました」ということにもなりうる。どの作品が自分の遺作になるかはわからない。今携わっている作品が遺作になるかもしれない。このことは、俳優だけでなく、創作するような仕事に就いた人みんなに当てはまるだろう。

「遺作」というのに拘らずにもっと広く考えれば、あらゆる人に何かしら当てはまると言ってもいいかもしれない。自分だったらこの記事が最後の記事になるかもしれないし、さっき喋ったあの言葉が最後の言葉になるかもしれないし、昨夜食べた料理が最後に食べた料理になるかもしれない。
まあ食事とか日常会話で喋ったこととかは何が最後になろうとしょうがないけれど、ブログの記事とかFacebookの比較的長文の投稿とかは、「遺書」というと別の意味に聞こえるけど、広い意味でのそういう文章になりうるのだから、真剣に書かないといけないなあと突如思ってこの記事を書きました。遺書を書くくらいのつもりで。

いやまあ別にいつもいつも真剣に書かなくてもちろんいいし、何が最後になったってよいといえばよいのだけど、なぜか今日はふとそう思ったというだけの話です。ふざけたくだらないことだって書きたいし真剣なことばかり書いてもねえと思いつつ。

みんなが生きやすかったらいいのに

一つ前の記事では誕生のめでたさの話もしたけれど、自分は自分自身の誕生をめでたいとは思えていない。生きるのは大変だし、しばしば苦しくつらく寂しいから。まあ最近はマシになってきたかもしれない。大人になったのか。

だから社会問題の記事がタイムラインとかに流れてくると、みんなが生きやすい世の中だったらいいのになあと思って、関心をもって読むことが多い。特に近年はジェンダーとかLGBTとか。また最近だと身体的な性のこととか*1

たまたま男らしさ、女らしさの概念が肌に合わなかったり、たまたま性自認性的指向*2が少数派だったり、たまたま重い生理痛を抱えていたり(それでいて職場は男性ばかりとかだったり)*3、そういう「たまたま」で日々生きづらいとしたら、それはよくないなあと。ただでさえ生きるのは大変なのだから、そういうところでさらに大変なのは望ましくないと思う。

もちろん全員が生きやすいというのは困難だろうけど(生きづらさを生じさせる問題は上記のものだけじゃないし、海外の人も含めたらその理想は本当に途方もないし)、しかし自分の理解とか学びとかによって、あるいはここに書くこと、問題に関する記事をシェアすることによって、それで誰かの生きづらさが少しでも減るなら、減ることに少しでも寄与できるなら、それは幸いなことだなあと思う。

*1:貧困問題とかも気になるけど、そういうのは財源がどうのみたいな政策的な話をかなり考えないといけないので、ちゃんと考えるには少しハードルが高いかも。考えるべきなんだけど。

*2:簡潔に言えば、自分の性別をどう自覚しているかが性自認で、自分にとってどの性別の人が恋愛あるいは性愛の対象となるかが性的指向。…という説明がどのくらい正確かはわからないが。

*3:以下の記事を読みました。社会人3年目の私が、恐る恐る上司に「生理」について話してみた | 井土亜梨沙

結婚のめでたさ

昨日、友人の結婚式に出席してきました*1。今まで何回か結婚式に出たけど、やはり結婚式というのはいいものだなあと思う。人生がこのうえなく肯定されている感じがする。「めでたい」というやつだと思う。

二人のこれまでを振り返るムービーとか、両親からの手紙・挨拶とか、そういうのを見聞きしていると、新郎新婦がこの世に生まれてきたのも、新郎新婦のそれぞれのご両親がかつて新郎新婦になった(結婚した)ということによるのだなあと改めて気づいて、人の歴史は「めでたい」ことの連続だと思った。

「めでたい」と言えば、人の誕生も「めでたい」とされる。「誕生日おめでとう」という。誕生日が「めでたい」のは、そもそも誕生が「めでたい」からだろう。結婚して、子どもが産まれて、結婚して、子どもが産まれて、という連続は「めでたい」なあと。

いや、本当に結婚や誕生が「めでたい」かどうかはわからない。見方によっては、結婚生活は、それ以前に単に生きていくのは、苦しいことやつらいことの連続だとも言えるからだ。特に誕生は、生まれてこなければ味わいようのない(であろう)苦しみやつらさを味わうことになるわけだから*2
結婚生活に限定して考えても、(仲がよいであろうとはいえ)異なる家庭に育った異なる性格の二人が一緒に生活するのだから、うまくいかないところ、不満や不自由も出てくるかもしれない。実際、離婚している人もそれなりにいるわけだし。

しかし、だからこそ人は誕生や結婚を祝おうとするんじゃないか。あるいは誕生や結婚に限らないかもしれない。卒業とか成人とか就職とか、そういうのも含めて、「めでたい」から祝うのではなく、「めでたい」ことにするために祝う。意志をもって肯定する。「おめでとう」の言葉にはそんな意味合いがあるのではないか。

というわけで、結婚おめでとう。

*1:出席した別の友人もその日の朝に入籍したという、なんとも「めでたい」日であった。

*2:もちろん、楽しみや喜びも味わいうるのだけど、苦しみやつらさの方が味わいやすいかもしれない。健康面とか金銭的な充実の度合いとか性格とかにもよると思われるが。