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作者とか鑑賞とかどうでもいい

風の谷のナウシカ』の感想を人に話していた時のことを思い出してふとわかったのだけど、例えばナウシカだったら、自分の感想には「宮崎駿」が出てこない。
穂村弘の『絶叫委員会』はエッセイだったから(また穂村弘に自分が似てると人に言われたから尚更)「穂村弘」の名前が出てきたけど、完全なフィクションの感想には作者が出てこないんだなと思った。自分の場合。
昨年は珍しく『君の名は。』という映画を映画館で見て、個人的にはかなりよかったのだけど、あの映画についての他人の感想で「新海誠」が出てくると、「なんで今その話するの?」みたいに思ってしまう。
自分が創作しない人だからなのか、誰がどんな考えで、どんな意図をもって作ったかとか完全にどうでもよくて、作られたものそのものがどうなっているか、あるいは観賞等を通じて自分がどういう体験をしたかにしか意識が向かない(いやそれすらそんなに向く方ではないのだが)。

と、ここで今さっき「かんしょう」を「観賞」と変換するか「鑑賞」と変換するかで迷ったのだけど、検索してみたらあるページに次のように書いてあった。

「観賞」の「観」の字には「見える」という字が入っている。
だから、その対象は見えるもの(=自然に存在する風景や動植物など)
〔中略〕
「鑑賞」の「鑑」の字は「良し悪しを考えて見分ける」という意味がある
だから、音楽や映画など人の手を加えた芸術作品に対しては「鑑賞」を用いる

「観賞」と「鑑賞」の意味の違いと使い分けについて ~同じ草花でも「観賞」も「鑑賞」も使う | コトバノ

だとすると、自分は芸術作品も「観賞」しかしていない気がする(ので「観賞」を採用した)。見ながらいちいち良し悪しなんて考えていない。そんなメタ的な思考をする余裕があるような作品は、自分にとってはどうでもいいものかもしれない。もちろん後から考えることは理論的には可能だけれど、大概そんなことはどうでもいいのだ。観賞体験がよかったら尚更。
そういう場合には他人の鑑賞による批評はあまり聞きたくない。作品だけでなく、自分の体験すらも評価されてしまうようで。それにどうせ話も噛み合わないだろうし。

そんなわけで、趣味というのは共感を求めるものなのかと言えば、自分は必ずしもそうだとは思わない。いくら人が「まずい」と言う食べ物だって、結局自分で食べてみないとおいしいかまずいかわからない。いいから黙って食え。